本文内の「」内、水野さんのコメントは本人筆によるものです。
「いろいろと悩んでいて、なかなか一歩が踏み出せず、スミマセンwww」
そんな水野さんに筆者は「水野さん、wwwではないです!」と喝を入れる。仕事の中で知り合って1年ちょっとではあるけれど、水野さんの先行きが気になってしょうがない。理由は…生活がまったく見えないからだ。起業の相談も受けているのだが、こちらも要領を得ない。
「(特に最近精力を注いでいた)現代アートは、なかなか儲けられません。価格の裏側にある制作時間、構想を練る時間、そんな時間をコストに置き換えると、マイナスになります。現代アートで生活するためには、知名度はもちろん、いろいろな要素が必要で、限られた人間にしかできないのかなと思わされることも多々あります。なので、全然時間もお金もありません!」
そしてまた、水野さんに喝を入れる。「事業について向き合っていますか?時間がない、仕事がない、稼ぎがない、では暮らしていけません」という具合に。
「アルバイトをいろいろ探しているんです!今までもいろいろな職種を経験してきていますし、それは苦ではないので」アルバイトの話を聞いてほっとした。で、どんなアルバイトをしてきたかと深掘りしてみると、いちいち話が面白くて聞き入ってしまう。
「某パン工場のライン作業の時は、過酷そのものでした。目を離したり、手を一瞬でも止めると、パンがラインからあふれかえってしまうんです!ラインの流れに沿って作業をしないと怒号が飛びますから。勤務中はずっと緊張していました。休憩時間も緊張が解けずに、食べ放題のパンも喉を通りませんでした。で、またラインに入っていき、パンがあふれかえる。そうすると怒鳴り散らされる。同じ姿勢で重いものの移動もあるので、腰もやられて、長続きしませんでした」
アーティストの系統にもよるけれど、水野さんは映像系のため撮影や編集に費やす時間が長く、どちらかというと椅子に座っている時間が圧倒的なボリューム。よって、体を動かすアルバイトは合わないのだ!
「自分に合う場所があると思うんですよね。おじさんなんで、体力系はちょっと…」
その調子である。後日、どうやら定期的に収入を得ることができるアルバイトが見つかったようだ。
2024年1月1日、北陸を襲った「能登半島地震」ですべてが変わった!
「とにかく現地へ行かないと!と気持ちが焦りました。何かできることはないか、と。ただ、お金が無いのもありましたけど、現地に行って関わりのある場所が災害に遭ったことに向き合うのが怖くて、ずっと行けずにいました」
2024年元日に発生した能登半島地震。水野さんと能登半島のつながりは「奥能登国際芸術祭」にある。2020年開催から関わり始め、芸術祭が行われる年には新潟から珠州へ数カ月滞在し制作活動をしている。地元の人たちとの交流、町の空気、文化や歴史、あらゆるエッセンスを肌で感じながら、まさに奥能登の人たちと共にアートワークを重ねてきた。それだけ濃い時間を共に過ごしてきただけに、この元日に起きた震災は衝撃的だった。
「芸術祭を運営する会社や他のアーティストとやりとりをして、現場に行ってボランティア活動ができたのが発生から数カ月後でした。芸術祭の時と変わらない部分もありましたが、やはり様々なことが一変していました。何かあった時のためにカメラは持っていきましたが、とてもカメラを回す気持ちにはなりませんでした。過酷な状況の中、まずは暮らしを安定させるのかが最優先。住環境の整備だけでも数年かかると思いますし、暮らしていくための仕事をしていかなければいけないと思うのですが、元に戻るためには、もっと時間が掛かりそうです。ここまでのダメージですから、商売を諦める人たちもいると思います。気持ちが追いつきませんよね。ただ、その中で、元気な顔や、芸術祭でできた友人が新たな道を見つけていたりして、希望を感じることもありました」
ボランティアに勤しむ水野さんではあるが、資金的にもカツカツの状況になってきた。
「事業としての活動費というよりは生活費です(泣)気がついたら暮らしにも影響が生じてきたので、ボランティア活動の前に自分の事業、生活が危なくなってきました。またアルバイト生活です!」
なかなか一筋縄ではいかない水野さんのアーティスト活動。作家活動→アルバイト→作家活動→作家活動→油断→アルバイト、の繰り返しである。
で、水野さんは一体、何をしているのか?というコトに尽きる
今までの話を整理すると、①映像作家のアーティスト ②奥能登芸術祭に参加 ③アルバイト経験数多し!というコト。話の流れとして…アルバイトの話が多かったため、ココではアーティストとしての活動やルーツを辿っていこう。
「ルーツは学生時代の卒業制作で映画を作ったコトです。映像系の道へ入ったのは、この作品の台本を担当したのが大きなきっかけ。鑑賞いただいた皆さんの評判が意外と良くて、見た人からの声って嬉しいですね。なんだか自分の中ではピーク=「こんな最高な作品を作れたのは最初で最後」だったような気がしています(笑)で、卒業後、千葉にある広告制作会社でコピーライターとして働きつつ、いくつか映像作品の脚本や企画をさせてもらいました。その後、誰もが知っている遊園地の会社で園内の看板・サイン類を制作する部署で働いていました。思うところがあり遊園地を辞めて、先輩の映像制作会社で働き、そこも色々とあって辞めて地元の芸術祭で期間職員として働きます。その芸術祭で関わった現代アートの事業を営む会社に入社します。そして、そちらも退職し、今では一人で映像の制作をしています」
ここ最近の仕事をまとめたポートフォリオを見せてもらった。観光PR、結婚式の記録、企業のイベント記録など多種多様だ。例えばこんな作品がある。
「ただ、自分の中に違和感もあって、自分の中でクリエイティブのディテールを追求していくより、もっと視野の広い=ディレクターであったりプロデューサーの方が自分に向いているのではないかと考えるようになりました」そこで、南区月潟地域にある『月潟劇場』にてちょっとした映画上映会を自主事業として開催。地域資源を有効活用しながら映像作品を通して町に元気をしていく活動にも取り組んでいるという。
「上映会のほか、ドリンクやフードを提供するイベントも行っていて、いろいろなコミュニティーが盛り上がるように刺激的な企画も考えているんですよ(笑)こうしたプロデュースというか、ディレクションをしている時こそ脳が活性化していますので、自分自身で『あ〜こういうコトが好きなんだなぁ、私って』と感じています」
安心したのは気のせいか。アーティスト水野さんはしっかりと歩いていた。ちゃんと暮らしていけているのだろうかと心配しているけれど、どんな表現をしているのか、今、感じているコト・モノに対するアートワークに期待は膨らむ。
「全然まだまだですが、少しずつちゃんとやっていきたいと思っています。なかなか表現する、伝える機会がなくてすみません!」
ミュージシャン、モアリズムの歌『笑う花』にこんなフレーズがある。
遠回り、遠回りするのさ
どんな道草にも
花は咲く
そして、サントリーオールドの名コピーも頭をよぎっていく。
人生、美味しくなってきた
水野さんの歩いてきた道が楽しいワケです。
水野祐介さん
新潟市出身、アーティスト。学生時代に作った映像作品をきっかけにクリエイターの世界へ。さまざまな企業にて広報や広告、クリエイティブ系の業務に携わり、いろいろあって新潟へ戻る。合同会社OBIでは映像作家として参加。2020年と2023年の奥能登国際芸術祭に出展した。また、新潟市南区月潟地域にある月潟劇場を拠点に、「街灯」という屋号で、フリーランスの映像制作を営む。その傍ら、自主事業として映画上映会【つきのまちシアター】やノンアルバー【辺り】など、小規模なイベントを開催している。
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